あおなじみ

日常生活。恨み節。性別捨てたい非国民。ネガティブ。

GIFTにおける羽生結弦さんの自己受容

まず最初に注意事項です。「○○のせいで羽生さんはああなったのだ!」的な考えをお持ちの方、回れ右でお願いします。
そうした文脈を好む方は不快に感じると思いますので、以下の文章は視界に入れないようお願いいたします。

 

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羽生結弦の内にある空洞

GIFTは、有り難い事にドームで観ることができました。今回のショーでは、羽生さんがどのように自己を認め、赦していくかの過程、自己受容の過程が描かれていると感じました。
かなり間違った受け止め方かもしれないですが…私は「羽生結弦がこんなにしんどいなら、私も仕方がないな」と思えました。

こんな事を言ったら失礼かもしれないですが、元々羽生さんには常に何かが欠けているような気がしていました。胸にぽっかり穴が開いているような感じが、いつもしていました。
努力を積み重ね、まるで奇跡のように結果を残し、強靭なメンタルを感じさせてくる羽生さんではありましたが、振り返ってみると「おや…実はちょっと大変なところがあるのかな…」と思うような事がチラホラありました。
そして一番「この人大丈夫?」と感じたのが2015年のFaOI。あの「天と地のレクイエム」です。
震災がテーマで、暗い表現になるのは当たり前なのですが…「この人、今夜手首を切って死ぬのではないか?」と感じた事を強烈に覚えています。全身にガラス片が突き刺さっていて、そのガラス片を更に深く、手を血塗れにさせながら身体に突き立てているような、自傷的にすら見える演技だったのです。演技が終わった後、何か憑き物が落ちたかのようにフッ…と無表情になった事も強烈でした。
どこまでも深い井戸の中を覗いているような気持ちにさせられ、感動したり悲しくなって涙を流すというよりは、とてつもない死の匂いを感じさせられた…というのが率直な感想で、私の中で強烈なプログラムとなりました。
金沢ではもっと死にそうな感じだったとの事で「あまりにも表現が暗すぎる」みたいな感想がチラホラ呟かれ「もうあんな怖い演技はしないで」みたいな事を言ってる方もいたくらいでした。私は神戸で見たんですが、金沢、どんだけヤバかったんだろう。

そんなわけで私は、これまで羽生さんのことを「なかなか塞がらない空洞を持った人」だと思いながら見て来ました。(あとは、桜の木の下に死体が埋まってるタイプだな…と…)
羽生さんは非常に感覚が鋭く(とくに聴覚)、色々なものを拾いすぎてしまう。集中力が凄まじいから自分の世界に入りきれるし、空気を読むのが苦手だからこそ、傷つけないように気遣いをしたり、時には過剰に適応したりする。
そして、完璧主義故に自己肯定感が低く、内省的。感情を出したくて衝動的に体を動かすこともある。ゆえに、肉体感覚が希薄な感じがする時もある…自分の肉体なんで好きにしたらいいと思いますが「ボディのスペアがあるのかな?」と感じるくらい、いつでも常に全力でした。
これらの特性は、羽生さんが生来持っているものなんじゃないかと、個人的な経験から感じています。なので「○○のせいで結弦くんがこんな事に」と言うのは、元々の性質を否定しているようで、逆に傷付けてしまうような気がしています。
それに「誰かのせいにすること」は自己受容ではないです。結局、他者に責任を委ねているだけですから。元々、困難な部分や暗い部分が多かれ少なかれ元々あったのが"羽生結弦"なのではないかな、と。
こういうのってデリケートな話になってくるし、ズケズケと他人の領域に踏み込んでいくような感覚もあるし、なかなか難しい話ですけども…。
でも今回は「自分も、そういう感覚なら知ってるよ」と言いたくて、敢えて書くことにしました。生きる上で抱えるある種の困難さが、少し自分と似ている気がしたからです。
(似ていると言うことさえ烏滸がましいという自覚はあります。すみません。)

 

GIFTとはどのような物語だったのか

では、考察に入ります(前置きなげ~)。

ざっくり言うと、GIFTの前半部分は幼少期(あったかい世界の僕の時代)~震災~北京五輪のトラウマを乗り越える…という流れで、後半からは前半を参照しつつ、自己受容への扉を開けていく物語になっていると思います。
まず押さえておきたいポイントですが、自己肯定感=自己受容ではありません。自己肯定の基盤となるものが自己受容であり、自分の良い面だけを肯定するというのは自己受容ではありません。悪い面含めて自分を認めること=自己受容であり、自己受容があってこその自己肯定感…という感じです。
なので、自己受容なしの自己肯定というのは、ほんの一時的なものにしかなりません。穴の開いたバケツにテープを貼って、一時的に凌いでいるだけです(…すんません、説明下手なので検索して下さい)。

私の解釈ですと、前半部までは「自己受容が全く出来ていない(意識すら出来ていない?)、穴の開いたバケツにテープを貼っている状態」です。そして「バケツに貼ってあるテープに気付く」のが「ロンド・カプリチオーソ」の前のアニメーション部分です。
ここで羽生さんは、いつ出来たかわからないけれど瘡蓋になっている、治っていない傷に対し「あなたのおかげで強くなったんだ」「治っていいよ ありがとうね」と言います。
そしてテープを剥がすのが「ロンド・カプリチオーソ」。結果はおわかりの通り、見事に成功させました!本当に本当に、美しい場面でした。
なぜここでロンカプなのか?というと、ロンカプが自己受容の入り口としてぴったりだったからだと思います。ロンカプを東京ドームで滑りきっても過去は変えられないし、失敗してしまった事(傷)は無くならない。その過去と向き合うためにロンカプを滑ったのだと思います。

 

タノシイ? ~ 阿修羅ちゃん

阿修羅ちゃんの前の8bitな部分で「ここまで来るのにどれだけの時間がかかった? どれだけの努力をしてきた? 自分でもわからない できなきゃ意味がない なら今の僕は必要ないのか 本当にそうでいいのか?」という台詞があり、バックに数字の映像が流れています。
この辺りは自分が「数字で結果を残せなくなったこと」への比喩で、結果が残せなくなったが故に、自身の内面の暗い部分と向き合わざるをえなくなった…という事なのかな?と、思っています。
結果を残していた頃は、数字で肯定感を得られていたわけです。ここでの8bitでノイジーな演出は、前半のバラード第1番(高得点をもらい、数字で肯定出来ていた)のパートとの対比になっていると思います。
バラ1はポジティブな言葉で溢れているのですが、優しいキラキラした風の表現とは別に、モノクロの砂嵐のような風の表現があり、テレビの砂嵐画面のような、少し不穏な演出が混じっているのです。
また、バラ1以外の前半部においても、映像にファントムや"黒い結弦"がチラチラと頻繁に映りこんでいます。このスクリーンでの映像演出は単なるイメージではなく、非常に重要なものである…というのは、最後の方に書きますので、最後まで読んで下さい(笑)。

数字で結果を残すこと。これは本当の意味での自己受容では無いと思うのです。数字が無くなったら、崩れてしまうのですから。もちろん悔しい気持ちはあると思います。欲しかった数字は確実に存在することでしょう。
しかし、その数字に縋ったところで、結局は本当の意味で自分を認めたことにはならないのです。数字での結果に結びつかなくても、出来なかった自分を赦すこと。これこそが本当の自己受容ではないでしょうか。
この視点から見ると、阿修羅ちゃんでの「こんな僕のことだれがわかる?一生わからない。わからない!」「あんたわかっちゃいない!」という叫びは「どうしたら自己受容出来るのか解らない自分自身」にも向けられているのではないでしょうか。

 

黒白の結弦 ~ オペラ座の怪人(ファントム)

羽生さんは五輪を二連覇しようが、グランドスラムを達成しようが、自己受容出来ていない。「あるべき姿」を目指し、ひたすら強さを求めてきたけれども、何の解決にもならなかった。
いつまでも空洞に風が吹いている。一般的なアスリートが満足できる地点は、何カ所もあったはずなんです。でも出来ない。いつまでたっても埋まらない。
それは羽生結弦が「特別じゃない」からこそ(これは「いつか終わる夢」の前に語られる言葉)、自己受容出来ておらず、自己肯定感が無いからこそなんです。
平昌五輪後、当初は自分へのご褒美的な意味で滑っていた筈なんですよね。でも羽生さんの場合「五輪後にもうちょっと滑りたい」みたいな動機では弱くて、それだけで自己受容出来なかったからこそ勝ちを求めたし、最終的に「アマチュアでの4A成功」を次の"夢"として設定したのかなと思います。

オペラ座の怪人(ファントム)」のパートでは、自己受容出来ない黒い羽生結弦と、"夢"であり、黒い結弦を守り・隠すための仮面でもある白い羽生結弦が現れます。
このパートでは白い結弦という「あったかい世界の僕」(=幼少期から抱いていたアマチュアでの4A初成功という夢)と繋がります。
「4A初成功」という幼少期からの自分の夢(=白い結弦)を自己受容の礎にすべく、鎖をつけてまで引き留めていた黒い結弦でしたが、礎にするには脆すぎて消えてしまいます。(消えた理由については後述)
仮に4Aを初成功させていたところで、羽生さんの場合それは仮初めのものであり、満たされるのはほんの一瞬なのではないかと思います。繰り返し述べているとおり、なかなか埋められないものを持っている性質なので。

 

たくさんの結弦 ~ いつか終わる夢

オペラ座の次のパート「いつか終わる夢」は、FF10の曲です。夢に向かって「消えないで」と叫ぶ立ち位置を原作に当てはめると、羽生さんは召喚士側(ユウナ?)なんですよね。 
原作でのユウナはティーダという主人公の事を好きになるのですが、ざっくり言うとティーダは"夢"なので、物語のラストで消えてしまうのです。これは、どうしようもない、変えようがない世界の運命として、消えます。
(ついでに言うと、ティーダは沖縄のほうの方言が語原になっており「太陽」を意味します)
FF10での召喚士というのは「祈り子の夢」が媒体になっている「召喚獣」を喚びだして戦います。ティーダもまた「祈り子の夢」として召喚されていた存在だった…というのがゲーム内でのお話です。

ファントムからの流れを汲むと、羽生さんにとっての「夢(召喚獣)」は「(アマでの)4A成功」でした。つまり羽生さんにとっての「祈り子」は「あったかい世界の僕」であり、白い結弦だったわけです。
自分で自分を祈り子にして「夢」を召喚する。これは原作ではあり得ない設定です。なぜなら「祈り子」は、謂わば人柱のようなものだからです。生きている人間から魂を切り離し、石像に眠らせたものが「祈り子」なのです。なかなかグロテスクですよね。
ここを、原作通りに出来ないのが羽生さんなんですよ。「誰かが傷付いてでも、アマチュアで4Aを決める」という選択肢もあったはずなんですよ。でもそれをしなかった。誰かや何かを祈り子に使わず、自分自身を祈り子にしたというわけです。

さらに、FF10の召喚士には大切なお仕事があります。「異界送り」です。
これはFF10世界における葬儀のようなもので、舞うことにより彷徨える死者の魂を異界=あの世に送るのです。なぜわざわざそうしなくてはならないのか?というと、ネガティブな感情を抱いたまま死んだ魂は、魔物になってしまうからです。
ではいったい、誰を魔物にしたくないのか?これは「いつか終わる夢」初披露時、プロローグの時に語られていた事にヒントがあると思っています。

https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQC50CZ7QC3UTQP00P.html
今回のこのプログラムは皆さんの応援の光がすごくまぶしくて。でも、皆さんの思いととも一緒に滑っている。けど、自分はもう見たくないとか、でもまた一緒に滑るとか、最終的に皆さんの思いを集めて自分はまた滑り続けるんだ、みたいなことを表現したつもりです

このコメントから推察するならば、魔物にしたくないのは「ファン」なのではないでしょうか。ご本人に「もう見たくない」とまで言わしめる応援、何度も見ている事と思います。

沢山の羽生結弦が歩いているパートでは、黒い結弦は「だれも傷付けない、ちゃんと完璧でいるから」と白い結弦を引き止めます。
しかし白い結弦は「いってらっしゃい」と互いを繋ぎ合わせていた鎖を自ら解いて去って行きます。一緒にいると羽生結弦が大切にしたい世界が壊れてしまうのが分かったから、黒い結弦を「自由」にさせたのかも知れません。
また、Twitterで「夢を見ることに疲れてしまった祈り子のようだった」と書いている方がおられ、それも非常にしっくり来るなあ…と思いました。延々と自己受容できないループを続け、新しい夢を召喚し続ける。「一人で夢を見ること」に疲れたから、白い結弦は去ってしまったのかも知れません。
冒頭でマントを投げるのも、マントが「夢」だったりするのかなあと思いました。こころなしか、少し名残惜しそうに投げますよね。

 

椅子に座る結弦~ノッテ・ステラータ、エンディング

そして最後の、椅子に座っての場面。このあたりは「いつか終わる夢」のパートまでと違い、自他境界が曖昧になっていて、誰のことを指しているのか曖昧な部分があります。しかし「僕は特別なんかじゃない」「君も僕も特別なんかじゃない」という台詞から推察すると、敢えてそうしているのかもしれません。
出来ない自分を責めたこと、不完全な自分を認められなかったこと。自分のこれまでを赦しつつ、新たな「夢」として星たちから「みんなからのギフト」を受け取ります。
自力で育んできた「自分の夢」から、周囲の人やファンと共に育む「みんなの夢」へとシフトするわけです。「誰かのために」という気持ちを礎にし、進んで行こうとしているわけです。

ここで「やったね結弦くん!自分を受け入れることが出来たんだね!」…と、言いたいのですが。

「皆さんの期待に応えられない自分だったら、必要ない」
https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQD84JR2QCKUTQP008.html

これです…これなんですよ…。このインタビューは構想が決まっていた時点での発言です。ご本人的にはまだ「自分を認めていく作業」の途中なのかも知れないですね。
それがどういう結果に結びつくかは、誰にも解りませんが、GIFTは羽生結弦さんにとっても「帰れる場所」にしたかったのでしょう。いつでも思い出して、自分で自分を認めることが出来るように「GIFT」を作っておいたのかな、と思います。
だからこそ、ポスターにタイムトラベラーがいるのではないかな、と。

 

トラベラーはどこにいたのか?

で、そのトラベラーなんですが、実は本編に出てきます。どこに出てくるかというと、前半の太陽と月のパートです。

「辛いところなんてないよ。これが僕だから。」
すごくかっこいいって思った。
僕も月みたいに強くてかっこよくなりたいって思った。

ここなんです。月の部分にトラベラーが現れてるんです。本編通して、ここだけなんです。おそらく、トラベラーはどこかの次元から、この時点に戻ってきているのでしょう。
ひび割れてても、傷ついてても、その欠点を恥じない。輝ける「月みたいになりたい」と…。月明かりが自分を照らしてくれたように、自分も誰かを照らせる存在でありたいという事なのでしょうかね…。

 

泣ける。

 

そして、こうも言ってるのです。

「もちろん、自分自身が今までの人生の経験の中で、一人ということを幾度も経験してきましたし、実際に感じることもいまだにありますし。それは僕の人生の中で常につきまとうものかもしれないです。

https://hochi.news/articles/20230227-OHT1T51218.html

もしかしたら彼の胸の穴は、覗いていると吸い込まれそうな程暗くて、キラキラした、アメジストホールのようになっているのかもしれません。

 

「特別なんかじゃない」

けれども。羽生さんみたいな特性の人が送る人生は、全然キラキラしたものじゃありません。キラキラして見えるのはほんの一部の人だし、その人たちは恵まれた環境にあったからこそ輝けているのです。そして、恵まれた環境においても特性故の苦労は絶えません。
だからこそ「特別なんかじゃない」というメッセージがある。羽生さんと近い特性の方ではなくとも、似たような感覚を抱いたり、似たような境遇におかれた方はいるでしょう。
そう考えると「太陽」というのは「ご家族や、周りで支えてくれる方々」なのかもしれませんね。

 

さいごに

Notteの前になんとか……と思い、駆け足気味で考察をまとめました。個人的には割と良い線いってる解釈ではないかと思うんですが、その辺の解釈は人それぞれなので、色々な受け止め方があっていいと思います。
今回解釈を進める上で、FF10だけではなく羽生さんのお好きな「東京喰種」「東京喰種re:」も踏まえて考えたりしました。FF10からは召喚士、祈り子の夢…とほぼそのまま設定を引き継いでいると思うのですが、主人公の「ペルソナ(仮面)としての自己」が沢山現れるのが東京喰種だな、と思いました。
でも一番気付きを得たのは恐らく羽生さんとは全く関係ない、Mr.Childrenの「深海」でした。というか、暗い中に椅子がポツン…という構図が非常にこちらのジャケットと似ていたからです(笑)
https://open.spotify.com/album/0URMrYr4RiKdPVfM5vWxUp?si=wXLedFosTlysPv-dDhpcmg
「深海」におけるシーラカンスとは…と考えたとき、もしかしてGIFTという物語は自己受容の物語だったのか…とようやく気付きました。
名盤中の名盤ですし、GIFTと構成が似ているので、興味のあるかたは聞いてみて下さい。シーラカンスとは"夢"なのかな?と感じるし、「花」とかはまさに、自己受容しようと足掻いている感じがします。

「深海」もそうですが、優れたコンテンツというものは時間の磨耗に耐えるものです。GIFTもきっと磨耗に耐える作品になるでしょう。それくらい普遍的なテーマがあると思いますし。
バンドでいうなら、デビューアルバムに位置するものが「深海」て。ヤバすぎですよ羽生さん。これからの作品にも期待しています。
MIKIKO先生とのお仕事も、また出来ると良いですね。GIFTに関わって下さった皆さん、本当にありがとうございました!